BUTOH覚え書き

心に想い描いたイメージをカラダを通して表現しようとすると、それはジェスチャーやパントマイム となり、制御の効いた高い技術を持った演者によってそれが為される場合見事な作品となります。しかし、如何せん、それは多くの場合小品の連続に留まる事が多く、次々に継起するイメージの爆発的変容世界を現出する舞踏(BUTOH)には必ずしも繋がらないようです。
舞踏を展開する中でジェスチャーやパントマイム的要素を添える事は作品にふくらみを持たせる上で必要な事であったりもしますが、別けても即興舞踏の本質はやはり大野一雄が言うように「デタラメの限りを尽くす」所にあります。
この、「デタラメの限りを尽くす」事程難しい事は無いのですが、それが出来るようになる前提の一つは「立ち竦む」事にあります。進む事も退く事もならず、何をどうしようと総てが嘘になる。そんな時、藁をも摑む気持ちでイメージに縋りたくなります。しかし、そこで、どんなに魅力的なイメージであったとしてもそれに凭り掛かったが最後、自分から逃げる事になり、舞踏はそこで潰えてしまいます。
取るべき道は只一つ。如何なるイメージにも自分を仮託しようとせず、何も無く何者でも無い虚無の時空に身を曝す事。そんな時です。僥倖のように痛烈なイメージに襲われるのは。そのイメージは表現の素材であるようなレベルを超えて、正に、存在そのものと言って良いような確かさを備えています。
山本常朝の『葉隠』に、「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり。(中略)別に仔細なし。胸すわって進むなり。」とありますが、ここで常朝が言う「死ぬ」事とは即ち「生きる」事なのです。
踊ろうが踊るまいが、人としてこの世に生を享けた以上、死は必定。私たちはそんな当たり前の事から目を逸らしがちなのですが、舞踏は、他の優れた芸術同様、私たちを「末期(まつご)の眼」と言う基本的な地点へと連れ戻してくれます。「死に装束」「死に化粧」と言う言葉も舞台に立つ者の覚悟の程を表しています。板子一枚下は地獄、の、その板子一枚の上に乗ってこそ舞踏と言う海への出帆は叶うのです。
何れにしても、『葉隠』に「胸すわって進むなり」とある通り、舞踏は決意と覚悟に尽きます。立ち竦んだ状態から踊りの場に無心に身を投げる事。ゆっくりと丁寧に。或いはひと思いに。舞台には必ず針の穴が隠されています。それを見付ける事さえ出来れば駱駝のように通り抜ける事が出来る筈です。穴の先にあるのは死かも知れません。しかし、穴を潜る度のその刻々に応答して、生は永遠へと回帰するのです。そこに、「デタラメ」と言う、敬神も瀆神も含んだ広大な自由の領野が広がっていて、観る者さえ捲き込んで已まないのです。
技術はあくまで二次的なもの。むしろ、嫌でも身に付いてしまうそれを如何に捨てて行くかが問題で、技術を捨てる技術、それだけが真の技術と呼ぶに値するのです.
人の心に訴える真に活きた動きは引き算された動きに応じ,足し算だけの動きからは単なる物理的移動しか生じません。
合理的法則に則ってボールがクルクルと回転しながら前に進む、それは優れて近代的なスポーツにおける身体です。それに対して、舞踏のカラダは、ボール本来の自然な回転を裏切って、只スッと前へと平行に進む、そのような、有り得べからざるものでなければなりません。
その瞬間にこそ、イメージは正に観る者の心の中で豊かな泉のように滾々と湧き出すのです。
原田伸雄(舞踏靑龍會 主宰)
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